正岡子規・夏目漱石生誕150年(2人が共に暮らした52日間)

 

松山城築城開始415年

 

(2016年12月16日;20年ぶりに天守閣年間来場者20万人突破)

 

憲法施行70年、日中戦争80年、ロシア革命100年!!

 

 <当年の正月はあひかはらず雑煮を食ひ寐[ね]てくらし候。寄席へは五、六回ほど参り、かるたは二返[へん]取り候>(1890〈明治23〉年1月、夏目漱石から松山の正岡子規に宛てた手紙)

 

子規と漱石の2人が生まれた1867(慶応3)年は激動の年だった。最後の将軍、第15代徳川慶喜(よしのぶ)が明治天皇睦仁に政権返上を奏上(そうじょう=天子・国王などに申し上げること。上奏)した大政奉還があり、その後の王政復古の大号令で幕府の廃止が公式に宣言された。

 

 松山市は、漱石ゆかりの縁で漱石が生まれ、そして晩年に住んだ東京・新宿区(新宿区立「漱石山房記念館」=2017年9月開館)や東京理科大学(小説「坊っちゃん」の主人公の出身学校〈物理学校〉)と、子規の縁で法隆寺の奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町と協定を締結し、互いに情報発信や事業を行うなど、150年に向けて気運を盛り上げている。

 

坊っちゃん(青空文庫)

 

いよいよ学校へ出た。初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒はやかましい。時々図抜ずぬけた大きな声で先生と云いう。先生には応こたえた。今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥(うんでい)の差だ。

 

 

 地域の文化を発信する東温市の坊っちゃん劇場で子規・漱石生誕150年記念作品ミュージカル『「52デイズ」〜愚陀佛庵、二人の文豪〜(脚本・演出 石田 昌也〈宝塚歌劇団〉)が2017年1月28日(土曜日)から上演される。

 

 

 

正岡子規(まさおか しき)=1867年10月14日(慶応3年9月17日)〜1902(明治35)年9月19日)。本名は常規(つねのり)。幼名は處之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)。享年34。東京都北区田端の大龍寺に眠る。

伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)生まれの俳人・歌人。別号は、獺祭(だつさい)書屋主人・竹の里人など。明治時代を代表する文学者の一人であった。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。

新聞「日本」・俳誌「ホトトギス」によって写生による新しい俳句を指導、「歌よみに与ふる書」を著して万葉調を重んじ、根岸短歌会を興す。がある

また写生文による文章革新を試みるなど近代文学史上に大きな足跡を残した。

代表的著作に「竹の里歌」「俳諧大要」「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」などがある。

 

 

仰臥漫録(ぎょうがまんろく)=子規の日記(1901〜1902)。死去する前年の1901年(明治34)9月、10月の日記がおもな内容。兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に収蔵。

 

(2017年2月5日配信『信濃毎日新聞』−「斜面」)

 

正岡子規はこんな短歌を詠んだ。〈打ち揚(あ)ぐるボールは高く雲に入りて又(また)落ち来る人の手の中に〉。空高く舞い上がったボールを落下地点を見極めて捕球する。1世紀の時を経ても、変わらぬ野球の爽快感だ

   ◆

これほど野球を愛した文人はいないだろう。旧制一高と帝大時代には自らプレーした。投手も捕手も務めたという。野球を題材にした俳句、短歌は数多い。日本新聞社に入社後も、野球の定義、規則、特色を詳細につづった画期的な解説記事を書いている

   ◆

病気や死とも早くから向き合っていた。喀血(かっけつ)した後に書いた戯文にこんな場面がある。閻魔(えんま)大王や鬼に現世の行いを問われた「被告子規生」は答える。ベースボールという遊戯だけは通例の人間より好きで、餓鬼(がき)になってもやろうと思っています。地獄にも広い場所はありますか―

   ◆

 1902(明治35)年、34歳で亡くなった。やがて野球は全国に普及し、1936年2月5日には日本職業野球連盟が創設。戦争で休止するが、戦後にはプロ野球が2リーグ制で始まり今日の隆盛に至る。その死から100年後、子規は野球殿堂入りした

   ◆

 各地からプロ野球のキャンプ便りが届く。開幕前にはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が開かれる。大谷翔平選手の不参加は残念だが、そこは日本代表、力を合わせ勝ち抜いてほしい。子規ならずとも胸が躍る球春である。

 

 

松山中学時代の漱石

当時の松山中学

 

夏目漱石(なつめ そうせき)=1867年2月9日(慶応3年1月5日)〜1916(大正5)年12月9日。小説家。本名は金之助。江戸の牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)生まれ。愛媛県尋常中学校(松山中。現・松山東高校)の教師、第高等学校(現・熊本大学)教授を経て英国留学。

帰国後、東京帝国大学英文科初の日本人講師になり、英文学を教える。高浜虚子の勧めで写生文を手がけ、『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判となり『坊っちゃん』を書く。その後、朝日新聞に入社。

代表作に『三四郎』『それから』『門』『こゝろ』、遺作の『明暗』など多数の著がある。俳句は約3000句をなし、また晩年には気品のある文人画も描く。日本の巨匠として世界に広く紹介されている。享年50才。豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園に眠る。

1984年から2004年まで発行された日本銀行券(1000円券)の肖像画となった。

 

 

坊っちゃん(青空文庫)

 

 親譲(おやゆず)りの無鉄砲(むてっぽう)で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰(こし)を抜(ぬ)かした事がある。なぜそんな無闇(むやみ)をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談(じょうだん)に、いくら威張(いばって)も、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃(はやし)たからである。小使(こづかい)に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼(め)をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴(やつ)があるかと云(い)ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

========================

 停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。

========================

この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる。料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓(ゆうかく)がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、誰だれも知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿(さら)七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払(はら)った。どうも厄介(やっかい)な奴等だ。二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等だ。団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭(あかてぬぐい)と云うのが評判になった。何の事だと思ったら、つまらない来歴(らいれき)だ。おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極(き)めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及(お)よばないが温泉だけは立派なものだ。

 

 

 鶉籠(うずらかご=鶉を飼うのに用いる鳥籠)には、「坊ちやん」「二百十日」「草枕」が収められている。3作を合せて本書が初刊行。

 

『ホトトギス』第九巻第七号(1906年〈明治39〉年4月1日発行)の「附録」(別冊ではない)として発表。

 

 

 

 

漱石が松山で下宿していた上野家の離れ(写真左)。漱石は、自らを「愚陀仏(漱石の別号《べつごう=別の呼び名》」と称して、俳句に熱中した。

1895(明治28)年に松山中学校の英語教師として、校長より高い月給80円で赴任した漱石は、その年の6〜7月の頃、松山城の山裾にあった「町はづれの岡の中腹にある至極閑静な家」「裁判所の裏の山の半腹にて眺望絶佳の別天地」の愛松亭(小料理屋)から松山市2番町(現在の料亭「天平」付近。「愚陀仏庵跡碑」が建っている)の上野義方邸内の2階建ての離れ(1・2階ともに8畳に6畳の2間)に移った。

ここに、療養のため帰郷した子規が一時居候し、同年8月27日から10月17日までの52日間、子規と漱石は共同生活を送った。

子規はここで句会などを開くとともに、俳句の学び方と作法を三段階に分けて論じた「俳諧大要」青空文庫をしたため、また1894(明治27)年に市立松山高等小学校長(現・番町小学校)の中村愛松(一義)、教員の野間叟柳(のま そうりゅう。門三郎)らが組織した日本新派俳句最初の組織である「松風会(しょうふうかい)」会員30数名を指導した。

離れ自体は、1945(昭和20)年7月26日の米軍のB−29による空襲(松山空襲)で焼失したが、「子規記念博物館」3階にその1階の部分が、1982(昭和57)年に萬翠荘敷地内に復元(写真右)されたが、萬翠荘敷地内の建物は、2010(平成22)年7月12日午前6時ころから短時間に大雨が降った影響で山腹の土砂が崩れ、全壊した。

 

 

 

漱石にちなんだ原付きナンバー

 

 「吾輩は猫である」の舞台となった漱石の旧居「猫の家」跡が区内にあることにちなみ、東京都文京区でゆかりの深い文豪・夏目漱石にちなんだ原付きバイク用オリジナルナンバープレートを無料で交付した。原付き1種600枚、2種400枚の計1000枚限定で、「走る広告塔」の期待を担う。区制70周年記念事業の一環。

デザインは公募、24点から選んだ。開いた本型の外形で「文化の香り高い」文京区をイメージ。猫のシルエットと小説の本文をあしらったという。

 

 

 

漱石生誕150(2017年2月5日配信『中国新聞』−「天風録」)

 

 生まれたばかりの子猫が家に入り、ミャーと鳴く。外へつまみ出してもいつの間にかまた中に。見かねて「置いてやりなさい」と妻に声を掛けたことが、創作のきっかけとなったらしい。「吾輩は猫である」の誕生秘話だ

▲夏目漱石の生誕から9日で150年となる。晩年を過ごした東京・早稲田の家の跡地を訪れた。生前、飼っていた猫たちを弔った「猫塚」の複製があった。傍らで記念館の建設も進む。いずれ観光スポットとなろうか

▲「かんしゃく持ち」のイメージの半面、世話好きの面もあったようだ。作家として立ってからも鈴木三重吉ら弟子を毎週、この家に招いた。病と闘う時期だが、世を動かす知識人を育てたいとの使命感があったという

▲「行人」は、その頃の名作だ。「自分に誠実でないものは、けっして他人に誠実であり得ない」という言葉がある。明治人の生きる苦悩をつづったのか。いま漱石ブームが再燃するのは現代の閉塞(へいそく)感に苦しむ若者の共感を呼んでいるのかもしれない

▲漱石の言葉は今を生き抜くヒントにもなろう。文豪の代弁か、小説の中で面白おかしくも文明批判をした「吾輩」。また猫に生まれ変わったら今の世をどう嘆くだろう。

 

漱石の本格的な記念館(2017年1月3日配信『日経新聞』―「春秋」)

 

 今年秋に完成した後は、おそらく人気スポットになるであろう施設の建設が進んでいる。場所は東京都内にある閑静な住宅街の一画。作家の夏目漱石が晩年に住んだ家の跡に新宿区が記念館(新宿区立「漱石山房記念館」=2017年9月開館)を建て、空襲で焼けた書斎やベランダなどを復元、庭の一部も再現するという。

▼戦後は公営住宅や公園として使われてきた。いったんは漱石との関連を忘れられた土地だ。今後は古い資料なども集め、観光だけでなく研究の拠点にもする。漱石の本格的な記念館は全国でも初だそうだ。昨年が没後100年、今年が生誕150年。49年の生涯が生んだ言葉の数々が、時を経てますます注目を集めている。

▼文豪のイメージとは違い、歩みは泰然自若とは遠い。留学で心は疲れ果て、奉職した大学は数年で辞めた。迎え入れられた新聞社でも後に冷ややかな扱いを受けている。病に悩まされつつ読者を引きつける連載を亡くなるまでつづり続けた。そんな仕事人としての苦労や曲折を知れば、改めて親しみを覚える向きもあろう。

▼家族には厳しかったが、死の間際、涙を流す娘に「もう泣いてもいいよ」と優しく声をかけたという(十川信介著「夏目漱石」)。小説では男らしさになじめない「悩む男」を描き、評論では国家主義を嫌い自由主義を擁護した。多くの人にとって明日は仕事始め。1世紀を経た言葉に、今を生きるヒントを探すのもいい。

 

注;『漱石山房の冬』(そうせきさんぼうのふゆ)=夏目漱石についての回想を綴った1923年1月に、『サンデー毎日』に掲載された作品。

 

 

広報まつやま2016年1月1日号(pdf)12面

 

 

現存天守12の一つ 12城中一番新しい天守

幕末のペリー来航翌年の1854(安政元)年に70年ぶりに再建された

 

賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦の「七本槍」の一人としても有名な、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・加藤嘉明(かとう よしあき/よしあきら)は、1600(慶長5)年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」において東軍(徳川家康)側に従軍し、その戦功を認められて伊予松山藩を立藩(りっぱん)、20万石の大名となる。

1602(慶長7)年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割(じわり=耕地、宅地、山林などを一定基準で区画すること)を行い、工事に着手し、四半世紀(25年)の後にようやく完成する。当時の天守は五重で偉観を誇った。

嘉明は1627(寛永4)年、陸奥(むつ)会津藩(現・福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩庁は若松城〈会津若松市〉40万石へ転封(てんぽう=知行地、所領を別の場所に移すこと。国替〈くにがえ〉)となる。

そのあと、蒲生氏郷(がもう うじさと)の孫忠知(ただとも/ただちか)が出羽国上の山城(現・山形県上山市)4万石から入国し、二之丸の築造を完成させるが、1634(寛永11)年8月、参勤交代の途中の在城7年4カ月目に京都で病没し、嗣子(しし=あととり)がなく断絶に運命となる。

1635(寛永12)年7月伊勢国(現・三重県)桑名城主松平定行(まつだいら さだゆき。徳川家康は叔父)が松山藩主15万石に封(ほう)じられ(領地を与えて、支配者とする)、1642(寛永19)年に天守三重に改築する。たが、1784(天明4)年元旦に落雷で焼失。36年後の1820(文政3年)から再建工事に着手し、35年の歳月を経て1854(安政元)年に70年ぶりに復興した。これが現在の天守である。

松平家は以来、14代定昭(さだあき)まで世襲して明治維新に至る。

定昭の子の久松定謨(ひさまつ さだこと。陸軍中将)の子の定武(さだたけ)は、貴族院議員・参議院議員を経て1945(昭和20)年から愛媛県知事を5期20年務め、保守王国愛媛を築いた(ポンジュースの名付け親でもある。明治以降、明治天皇の勅命により大名家の家系は伊勢国・桑名藩〈現・三重県桑名市〉主家以外は姓を「久松」に戻している)

 

 

 

inserted by FC2 system