椿の会 毎年恒例の『いも炊きパーティー』 2015年9月6日 |
今年も恒例の秋の月見を兼ねての「いも炊きパーティー」の日がやってきました。場所はいつもの重信川河川敷・出合橋下。 あいにくの天候で、雨が心配でしたが、何とか降られず済みました。月見は次のお楽しみ! 雨女なではなく、晴れ女(元会長・現顧問)のおかげです。来年の参加も宜しくお願いしますと会長。来年は招待?? 最初は全員が手話で自己紹介。それぞれ鍋別に談笑。いろんな話ができて、楽しいひと時を過ごすことができました。 企画や準備をしていただいた、企画部長や会長に感謝です。ごくろうさまでした。そしてありがとうございました。
涼しくなった秋の河原で、大鍋で煮込まれた「いも炊き」を囲んで、月見を楽しみ、酒を酌み交わす風流な行事は、秋の伊予路の風物詩になっていますが、その起源は、藩政時代に大洲藩で行われていた「お籠(こも)り」と呼ばれる、親睦行事といわれています。 調理法は、砂糖や薄口醤油、塩、みりんであっさりと上品に仕上げただし汁に下茹(ゆで)でした里芋を大根、鶏肉、タコや油揚げ、椎茸、コンニャク、ネギ、ニンジン、うどん等をいれ大鍋で煮込むだけ。 重信川では、出合のほか、森松、砥部、横河原の4箇所で、開催され毎年数万人の人手があるといわれています。 なお、主に東北地方で行われる里芋を使った鍋料理などを作って食べる行事を「芋煮会(いもにかい)」といいます。 ついでに、重信川の「重信」とは、松山城の南麓を流れる湯山川(現・石手川)の流路を変更し、延長8kmにも及ぶ水路が切り開いて、余土(よど)村(現・松山余土町)で伊予川と合流させ、城の堀として活用する等、堅固な築堤と水制工事、城下開発に卓越した手腕を見せた松山藩家老の足立重信からとられました。その合流地点が現在に残る「出合」の地名であり、この重信の偉業により、領内では水害がなくなり、収穫も潤ったといわれています。 以来伊予川は、現在の名称の「重信川」と呼ばれ、国内でも珍しい「個人の業績を名に残す」川となったと、司馬遼太郎氏は「街道をゆく・南伊予・西土佐の道」で記しています。 その上流には、松山市民の水瓶である石手川ダムがあり、1994年夏の大渇水時には毎日ニュースで報道され、全国的に有名となりました。 |
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