蛇の目寿司事件

 

1965(昭和40)年9月19日、東京上野の寿司屋「蛇の目寿司」店内でろう者(聴覚障害者)の青年男性2人と他の健聴者の客とがトラブルを起こし、止めに入った店主がろう者の一人によって投げ飛ばされ、コンクリートの床で後頭部を強打、翌朝病院で死亡した傷害致死事件。

 

トラブルの原因は、2人の聾者が手話による会話をしていたところ、別の客3人から「じろじろみられる」等、好奇の目を向けられたことから、「見ないで」と頼むが一向に改まらなかった。そこで、ろう者が席を立って客の肩を叩き注意を促したところが、逆に殴られため、争いとなった。見かねたろう青年と顔見知り店主が仲裁に入った。しかし、口で言ってもろう者には通じない。そこで店主がボウル(下駄という証言も)でろう青年の頭たたいたため、今度はろう青年と主人とで争いになったわけである。

 

注;起訴状(一部)

第一被告人Sは、

(一)昭和40年9月19午前零時30分頃東京都台東区上野6丁目13番の1号飲食店蛇の目寿司において客のO(当時24歳)に対し同の顔面を手拳で殴打し且つ足蹴にする等の暴行を加え、よって同人に対し全治迄14日間を要する右眼眼瞼皮下出血等の傷害を与え

(二)同日午前1時50分頃同所において同店女子店員T子(当時20歳)に対し同人の顔面を平手で1回殴打する暴行を加え、

第2被告人Kは、

同日午前2時20分頃同所において同店店主T(当時43歳)が被告人Sの前記犯行を制止しようとしたことに憤激し、右Tの顔面腹部等を手拳で殴打し且つ同人を突き飛ばした上、同人を両手で抱き上げてコンクリートの床に投げつける等の暴行を加え、よって同人を同日午後10時50分頃同区元浅草2丁目11番7号A病院において、右暴行に基づく脳硬膜下血腫により死亡させるに至ったものである。

 

事件当時、ろう者のコミュニケーションの手段は、口話法が重視され、聾学校ですら手話は口話法より劣る手まねとして禁止されることも多かった。そのため、世間で手話を解する人口は極端に少なく、2人には店内で奇異の目が向けられることとなった。

 

2人は日本ろう学校中等部卒の者と台湾の尋常小学校3年中退者で、口話法(聾児の教育方法の一つで、言語指導をはじめ,すべての指導とコミュニケーションを音声言語でおこなおうとするもの。話し手の唇や顔面筋肉の動きから話された言葉を理解する読話(読唇ともいう)、発音・発話,残存聴力の活用による聴き取りに基づいている。発声訓練や読唇術などによる健常者相手にもそのまま用いられる会話方法)には習熟しておらず、手話が唯一の会話法だった。

 

裁判救援活動をする友人たちは「2人のろう青年を守る会」を結成し、弁護士を探したが、被告人がろう者とわかると、引き受けてくれるところはなかなか見つからなかった。最終的に弁護を引き受けたのが、自由法曹団の東京・中野の松本善明法律事務所(現・代々木法律事務所)だった。控訴審で、(8歳の時流行性脳脊髄膜炎により完全失聴した)日本初のろう者の弁護士の松本晶行氏(北尻総合法律事務所・全日本ろうあ連盟前副理事長・2013年「旭日双光章」叙勲)が参加した。

 

注;自由法曹団;基本的人権を守り民主的日本の実現に寄与することを目的にとして布施辰治らが1921年に結成した弁護士団体。現在、所属弁護士の人数は約2000人。全国すべての都道府県で活動しており、全国に38の団支部がある。なお、広辞苑(岩波書店)では、「大衆運動と結びつき、労働者・農民・勤労市民の権利の擁護・伸張を旗じるしとする」と紹介されている。

 

注;松本善明;海軍兵学校(75期)で終戦を迎え、1948年東京大学法学部政治学科在学中に日本共産党に入党。弁護士として松川事件やメーデー事件、労働争議に関わる。2003年まで日本共産党衆議院議員を通算11期勤める。現在、日本共産党名誉役員、財団法人いわさきちひろ記念事業団副理事長。絵本画家のいわさきちひろの夫。

 

松本善明さんの米寿をお祝いする会=2014年5月17日

左は、吉良よし子参議院議員

 

裁判の過程で被告のろう者は、自分が手話で語る時間の長さに比べて、通訳者の発言時間が短すぎるなどから、自分の主張が正しく通訳されていない疑いがあるとして、手話通訳者の交代を何度も願い出た。これに対し、手話通訳者は「冗長すぎる部分は簡潔に要点をまとめた」と言い訳したが、結局、「被告人が手話で話すことは、たとえ冗長であっても、本人にとって不利なことであっても、正確に手話通訳する」人を依頼することになり、延べ3人くらい、手話通訳者を代えることになった。

 

注;警察は、ろう学校教師に手話通訳を依頼したが、ろう学校では手話が禁じられていたため、手話ができる教師は限られていた。また、当時、「『手話ができること』と『手話通訳が可能なこと』は、別である」との認識は、警察を含めて、司法側にも一般社会にも希薄であった。そのため、警察官の訊問は、被疑者であるろう青年たちに、正しく理解されたのか? ろう青年たちの主張(陳述)が、正しく、取調の警察官に伝えられていたのか? という素朴な疑問が生まれた。後に、ろう青年2人は、被疑者にどのような権利が認められているかを知らず、どんな説明があり、どのように理解したのか、覚えていなかったし、黙秘権についても知らなかったという。

 

東京地裁は、店主を投げ飛ばしたろう者に懲役5年の実刑(控訴審で4年に減刑)、もう1人に懲役10ヶ月執行猶予3年を言い渡したが、意思疎通の不足で被告側の主張が十分に考慮されておらず、通常より重い量刑だとの批判が生まれた。

 

客同士のケンカに端を発する事件ではあったが、発端は手話に対する偏見(障害者差別)に起因しており、またその後の裁判過程では、特に、手話通訳に関して種々の疑念が持ち上がり、裁判で手話通訳を受ける権利がクローズアップされた。

 

同時に事件は、ろう者の基本的人権の保障を求める立場から『権利』としてさまざまな要求を出していく、「ろうあ(聾唖)運動」につながり(聴覚障害者の人権を守る運動の先駆け)、手話通訳者の必要性が強く求められる契機となった(わが国の手話通訳活動の原点の一つとされている)

 

注;この後1966年8月16日に大阪のある聾者の解雇撤回の運動を進めるために「ろう者の人権を守る会」が大阪で結成され、1968年には全通研の前身である全国通訳者会議が福島で開かれた。

 

なお、この事件の1年前の1964年に発表された推理小説が、聴覚障害者が主人公となっている西村京太郎の『四つの終止符』である。その1年後にこの事件は起きた。

 

注;下町のおもちゃ工場で働く晋一は耳の不自由な青年だった。ある日、心臓病で寝たきりの母が怪死する。栄養剤から砒素が検出されたとき、容疑は晋一に集中した。すべてが不利な中で彼は無実を叫びつつ憤死する。そして馴染みのホステスも後を追う。彼をハメたのは誰? ヒューマニズムに裏打ちされた秀作

あとがきで西村は、「聾唖者教育の現状が貧困で一般の認識度も低いことや、聾者は発声機能が損なわれているわけではないため本人もろう学校の先生も懸命な努力をして発音しているにも関わらず、世間の嘲笑の対象となってしまうことにたいしての怒りなどをこの作品に込め、「彼らを理解する手助けになれれば幸いである」と述べている。

 

また、『四つの終止符』を原作の映画が香山美子主演の『この声なき叫び』。

 

 

参考文献

 

新しい聴覚障碍者像を求めて(財団法人「全日本ろうあ連盟出版局1991年9月刊)

第2部 社会参加を拒む壁とろうあ運動

2.ろうあ者の裁判と人権    河合洋祐(pdf

 

1.蛇の目寿司事件

1965年(昭和40年)の秋、2人のろう青年が上野駅に近い寿司屋に入り寿司を食べながら手話で話し合っていたその時、に入ってきた3人連れの客から好奇の眼を向けられ、余り執拗に注がれる視線に耐えられず、見るのを止めてほしいと身振りで示した。しかし客には通じないようなので、立ち上って近寄りその客の肩を叩いて注意を促したところ、逆に顔を殴られる結果となり、取っ組み合いの喧嘩となってしまった。騒ぎを起こされた店の主人は、ろう青年が顔見知りであったため説諭をしたが、口話が分らないのに腹を立てたのか、下駄を振り上げて(店員の証言ではボール)ろう青年の頭を打ったことから、今度は寿司屋の主人との争いとなり、投げ飛ばされた主人は倒れた際に後頭部を強打して、そのまま亡くなるという不幸な傷害致死 事件となってしまった。

普通であれば、偶発的に生じた刑事事件で、終ったのであるが、被告人となった2人のろう青年の友人たちが裁判救援活動を始めたことから、警察での取り調べや法廷における手話通訳の保証が充分でない実態が明らかとなり、後に、「蛇の目寿司事件」と呼ばれて一般の関心を惹く裁判になったのである。

 

2.ろう者の実態とコミュニケーションの保障

警察署での取り調べに当って、警察官は手話が分らないため、ろう学校の教師を手話通訳者として依頼した。現在のように手話が普及し、地域において数多くの手話通訳者が活動している時代と異なり、この頃の刑事関係の手話通訳は殆どがろう学校教師であった。しかし、ろう学校の教育方針は口話法中心であり、手話の使用は禁じられていたため手話に堪能な教師は限られていた。また、手話が出来るということと、手話通訳が可能ということは別であるという認識は司法側にも一般社会にもなかった。

被告人となった2人は、1人が日本ろう話学校の中等部卒、もうl人は台湾の尋常小学校3年中退であり、手話が唯一のコミュニケーション手段であった。更に付け加えておくと、現在のろう学校より生徒の平均学力は低く、一般の学校より5年から6年の遅れが指摘されていた時代であった。

このような状況にあって、ろう者に対する警察の訊問がろう学校教師の手話通訳を通して、どこまで正しく理解され、容疑者としての陳述がどこまで正確に取調官に伝えられたか、聴覚障害者問題に疎い人でも容易に推察できると思う。

巣鴨拘置所に収監された2人に面接した際に取り調べの状況を聞いてみたが、黙否権のようなものについて全く知らず、取り調べのときもどのような説明を受け、どのように理解したかについては憶えていないくらい被疑者にも認められている権利については無知であった。

因みに手話通訳について記しておくと、厚生省が手話奉仕員養成事業を始めたのは1970年(昭和45年)からであり、これを契機として各県で手話講習会が聞かれるようになった。しかし、手話通訳が出来るようになるには5年から6年かかるのが普通であり、地域に手話通訳が広がったのは1975年(昭和50年)以降とみて間違いない。そのため、この事件が起った1965年(昭和40年)頃は東京でも手話通訳の出来る人は10指にも満たなかったのである。

3.ろう者ゆえに弁護士も門前払い

被告人の2人は当然正確な手話通訳の出来る人を求めた。しかし、この2人の裁判救援のために「守る会」を結成していた友人たちは、手話通訳者を捜す苦労をしなければならなかった。それだけでなく、守る会として良い弁護士に付いてもらいたいと願い、仲間の1人が自転車で(自動車の運転免許の道が拓かれたのは、全日本ろうあ連盟の運動により1973年=昭和48年からである)中央線沿線の弁護士事務所を訪ね廻ったが、対象がろう者と分ると難しいと断わられ、引き受けてくれる所が仲々見つからなかった。周囲の健常者にその事実を訴えても国選弁護士が居るから心配はないと言うだけで、人権を守る最先端に位置する弁護士の姿勢について言及する人はいなかった。

障害者への人権抑圧ということが、権力機関のみでなく、一般社会の無理解から生じる怖さを救援活動を通して体験したのである。最後に依頼を認めてくれたのが中野にあった松本善明法律事務所であり、弁護活動を通して守る会のろう者たちに接触する機会に、憲法の基本的権利についての知識を与えてくれたのも、この事務所に所属する弁護士の方たちであった。この知識が東京におけるろうあ運動の発展に役立ったことを考える時、国法の理念を正しく国民に伝える弁護士の活動というものが民主々義社会の維持に貢献する役割をあらためて強く感じたものである。

この時代に生きたろう者の不幸は、ろう学校の口話教育により家族とすら充分なコミュニケーションを持てなかったことである。面接に行った母親が息子である被告人と話しが通じないため、一緒に付いてきた友人のろう者に息子が手話で話した内容を教えてほしいと頼むようなこともあった。ろう児を持つ親の関心はもっぱらろう学校の口話教育に向けられて、成人聴覚障害者の社会生活の実態についての認識が浅く、蛇の目寿司事件のような深刻な問題が生じても家族の立場から社会的にアッピールしようという動きは起きなかった。

裁判救援活動はどこまでも同じ耳の障害をもつ仲間たちの運動として進められた。その意味からも弁護士の働きがなかったら、単に一部のろう者たちが騒いだというだけで終っていたと考える。

4.もの言えぬ身の裁かれるとき

裁判が始って傍聴に駆けつけたろう者たちにとっての驚きは、傍聴のろう者のために手話通訳を付けることが認められず、被告人のろう者のための手話通訳者の手話を見て内容を理解するしかなかったことである。

また、被告人のろう者の陳述する内容と警察署や検察庁の調書とではかなり食い違っている所があるが、法廷に出席した証人に対して質問しているのは検察官と弁護士のみで、被告からの質問が全くといってよいほど無いのである。守る会はこの事実から地裁判決後、高裁への控訴支援の呼び、かけをするに当って、趣意書の中で憲法第37条第2項にある「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与えなければならない」とする規定が正しく生かされていないことを訴えざるを得なかった。

更に手話通訳者の問題が地裁、高裁を通して大きなネックとなった。特に被告人から手話通訳者を忌避されたときは困惑した。理由を聞くと被告人のろう者が話す時間の長さに較べて手話通訳者が口頭で裁判官に伝える時間が短か過ぎる、主張することを正しく通訳してくれていないと言うのである。一方手話通訳者に聞いてみると、被告人の陳述が同じことの繰り返しで冗長に過ぎるので簡潔に要点をまとめて伝えるようにしたと言うのである。この問題では手話通訳者を変えるべきかどうかで守る会の内部で激論が交わされた。結局被告人が手話で話すことは例え冗長であっても、本人に不利なことであっても正確に手話通訳をする人を頼むことにし、延べ3人位手話通訳者を変えることになった。

5.法の下の平等は無く

被告人のろう者に面接する際、金網越しの薄暗い部屋では手話がよく見えない、弁護士を通して改善を申し入れたが、金網からガラス張りの面接室に替わったのは高裁のときから参加してくれた松本唱行弁護士の活動によるものであった。また面接したときに房内の生活状態をいろいろ聞いてみたが、当然手話の出来る看守はおらず、囚人と手話で会話は出来ず、ラジオは勿論聞こえない。本人たちの国語力では新聞や雑誌を差し入れても読みこなす力はない。このような場合、健聴者の囚人と較べてろう者の精神的な苦痛は2倍、3倍にも増幅されることになる。これと同様に面接時間にしても健常者が口頭で話すのと手話で話すのとでは大きな聞きがあるが、時間だけは同じに制限されている。

法の下に平等というが、障害をもった身には平等に扱われることが決して平等にはなっていない事実を司法当局はもっと理解すべきではないかと思っている。

6.裁判官の障害者への認識

2人の被告人に対する地裁の判決は、寿司屋の主人に直接手をくだした方に実刑5年というものであった。そして控訴した高裁で、1年減刑され4年の判決となった。その理由として、被告人から何度かの裁判官宛の上申書を受け取ったが、文脈が支離滅裂であり到底判読のしようのないものであったため、被告人の精神的な発達が充分でないと判断した結果の情状酌量であった。

確かに文章のみで判読するならそうなるのかも知れない。それなら何故警察の取り調べのときの筆談は問題にならなかったのだろうか。例え文脈が整わなくても手話で話すときは正常な判読力を示し、手話通訳の思避をしたのはなぜなのだろうか。同じ聞こえない者の立場からみて精神的に幼稚とは思えないのである。しかし、当時の最高の知識段階に位置する裁判官ですら、この程度の障害者への認識しか持っていなかったという意味では一つの証拠になるであろう。

この裁判救援活動を通して痛感したことは障害者の基本的人権の確立のためには、何よりも先ず憲法の理念を日本の社会に定着させるための国民自身の行動を必要とする事実である。裁判救援活動に関係した多くの聴覚障害者の仲間たちが、この後ろうあ運動に率先して身を投じていったのも、民主々義社会を守り育てるため、憲法第12条にあるような自由と権利を守るための国民の不断の努力というものを実践するために他ならなかったのである。

 

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