(愛媛)県サ連2014年度研修会;2014年12月14日(日)

 

 2014年度の県サ連研修会が2014年12月14(日)、「赤い羽根共同募金助成事業」として90名の参加で県視聴覚福祉センターにて開かれました。

 県サ連は、愛媛県内の手話サークルの情報の共有と、手話にかかわる人たちの交流の場を提供する場として、椿の会をはじめ愛媛県下の手話サークル17団体で構成されています。

テーマーは「障がい者と防災について」。内容は、国連の防災会議でも紹介された映画『生命のことづけ〜死亡率2倍 障害のある人たちの3.11〜』の上映と早瀬憲太郎氏による講演でした。

 

 

1213-3.jpg

1213-5.jpg

 

 まず、早瀬氏が監督として関わった映画『生命のことづけ』が上映されました。

 

 

 

 

 

 

1213-1.jpg

1213-2.jpg

 

 この映画では新たな試みとして、字幕/音声解説/手話(オープン)がついていますので、聴覚障害者も視覚障害者も一般の方々も同時に観ることができます(2013年/日本語/37分。制作:日本障害フォーラム・日本財団)

 東日本大震災で被災した盲ろう者の早坂洋子さんをナビゲーター
(案内役)としてこの映画は進行します。津波で命を失った人たち・・・ 家族や仲間たちが語る証言。そして、ようやく逃げ延びた人たちを待っていた、過酷な現実・・・ 避難所で「出ていけ」と罵声を浴びせられた精神障害のある人たち。ベットがなく床に寝ることもできず16日間車いすに座り続けるしかなかった女性。避難指示区域に5日間取り残された全盲の女性・・・
 

 そうした中、さまざまな障害者団体や支援団体が、自治体からの協力を得ながら、支援の取り組みを開始します。福島県南相馬市と岩手県陸前高田市では、個人情報の開示を受け、障害者の訪問調査が実現しました。

 こうして新たな大災害の可能性が指摘される中、震災を経験した当事者、関係者の姿を通じて、今後の復興と地域づくりに向けたあり方が探られました。

========================

 

 次に、早瀬憲太郎(はやせ けんたろう)氏の講演。早瀬氏は、1973年生まれ、奈良県出身。教育者にして映像作家。2007年よりNHK『みんなの手話』講師。自身ろう者であり、ろう者向けの学習塾(「早瀬道場」)を経営しています。その他、大塚ろう学校で教育相談指導員および非営利団体スマイルフリースクール理事長を務め、長年ろう児のための映像教材制作に関わる等、子どもの教育に熱心に取り組んでいます。商業劇映画『ゆずり葉』で日本初のろう者監督となりました。妻は聴覚障害者で初の薬剤師となった早瀬久美氏です。

 早瀬氏は、塾を開こうと思ったきっかけはについて、「学校が終わった後でも、もっと勉強したいというろう児のために手話という言語を使って教科学習を行う塾を作りたかったんです。聞こえる子どもの塾はあちらこちらにありますが、ろう児のための塾はほとんどなかったんですね。10年前から自宅で始めたのですが、今は五反田で教室をかまえています。当初はいろいろな教科を教えていましたが、今は日本語や国語教科にしぼって教えています」といいいます。  

また、日本で初めて県や市町村に手話の普及などを義務づける「手話言語条例」を制定した鳥取県の鳥取市で11月23日に開かれた「手話パフォースマンス甲子園」の司会をされました。

早瀬さんの趣味の一つが自転車で、ろう者総勢15人が参戦した2014年7月28日(土)〜29日(日)のシマノバイカーズフェスティバルMTB2時間耐久ソロで3位に入賞しました。4年に1度、世界規模で行われる聴覚障害者の ための総合スポーツ競技大会であり、国2013年のデフリンピック(ソフィア2013)の日本代表でもありました。

 

 講演内容は、映画製作の依頼を受けた話から始まりました。目的は、国際的な防災戦略について議論する国連の世界防災会議での上映。条件は2つ。@国連での時間配分から時間は30分。A対象は、すべての障害者。
 

 早瀬さんは、2年間で取材した時間は100時間であったこと。それを30分にまとめる大変さと取材した多くの人たちを映像化できなかったことの申し訳なさを語られた後、次のことを話されました。

 

 1.「3・11」大地震と津波で一番死亡者が多かったのは、肢体不自由者。情報はあっても1人では逃げられない。

 

 2.聴覚障害者の中に、逃げなかった人たちが多くいた。情報がないから、逃げられても逃げなかった。防災放送も聞こえない。20年前に石巻市や女川町などで防災放送システムが整備されたときに、聴覚障害者は聞こえないので役に立たない。しかし、そのことに声をあげなかった。そのために聴覚障害者に対する対処方法が整備されなかった。聴覚障害者の中で逃げられて無事だったのは、日ごろから付き合いのあった近所の人が身振りで知らせてくれて連れて逃げてくれたから。そのことから、聴覚障害者自身が声をあげ、一緒になって考えること、日ごろの近所付き合いと、いろんなところへでかけていって社会とのつながりを持っていることが大切である。

 

 3.災害が起きた日から3日間の間に水、食べ物、衣類等にほかに聴覚障害者が必要な3つのもの。それは@手話 A光 B補聴器。

 補聴器は聴覚障害者であることを他の人に知らせる手段として、光(懐中電灯)は夜、聴覚障害者の自分をわかってもらう手段etc。

 

 また、NHK『みんなの手話』のナビゲーター(案内人)を務めているV6の三宅健(みやけ けん)のお話がありました。三宅さんが手話を始めるきっかけになったのは、コンサートの終了後の握手会の時に一人の女性から手話で「がんばって」と声をかけられたことだといます。はじめての出来事だったのですが、それが手話に興味を持った動機でした。それから、自分で勉強を始めたのですが、むつかしい。そこで東京・渋谷の手話講座に通い手話を学びまし。もし握手会のとき手話で話しかけなかったら、三宅さんが手話を学習することはなかったではないでしょうか。やはり、自信をもって、どんなところでもち聴覚障害者の言語である手話を使いうことが重要というエピソードです。

 

 最後に早瀬さんのご家族のお話がありました。ご家族は6人。おじいさんと、お祖母さんがろう者。お父さんとお母さんが聴者。早瀬さんがろう者、妹さんが聴者ということです。

 妹さんは大変早瀬さんを好きで、いつも一緒に出掛けていました。その時は、周りに起きている出来事を早瀬さんに盛んに手話で話したということです。早瀬さんの情報源は妹さんだったのです。しかし妹さんが独立してからは、情報が途切れることになりました。そこで早瀬さんは、いろんな工夫をして情報に接する(アクセス)する努力をしたということです。個々人努力して情報の獲得することが重要という話でした。

 

 早瀬さんに対する質問も多く出され、時間をかなりオーバーした、有意義な研修会となりました。皆さんの満足度はかなり高かったと思われます。

 

 

inserted by FC2 system